Column
Our Roots


 31 March,2014    誰かが風の中で / 上條恒彦
 
 歌詞は重要である。どんなに素晴らしいメロディでも、そこに間抜けな歌詞がついたとたん、すべては台無しになる。その点洋楽はいい。歌詞の意味が解らないので、言葉と声の響きやリズムを楽器と同様、純粋に楽しみ、イマジネーションを自由に膨らませることができる。(あとで対訳を読んだ時、こんな内容の歌詞だったのかと愕然とすることもある。)英語力が向上した今でも、頭の中で訳すという作業がワンクッション挿まるので、言葉も“音楽”として捉える洋楽の楽しみ方というのは、昔と変わらない。そうした音楽の聴き方では、歌詞の意味は二次的なものであり、それがOGの聴く音楽が洋楽に偏る理由の一つだ。
 それでは歌詞が日本語の曲は洋楽には及ばないのかというと、そういうことではない。作り手のイマジネーションを直に聴き手が共有し、メッセージがダイレクトに伝わるという面では、翻訳を介する洋楽に邦楽は優り、聴き手の生き方や人生観に大きな影響を与えることもある。しかし、提示される言葉のイメージが明確な分、聴き手には自分の価値観との差は、それが小さなものでもはっきりと感じられてしまう。結果としてOGがいいなと思える邦楽の曲は時折あるとしても、録音までして聴きたい曲に出会えるのは四年に一度かそれ以下、サッカーW杯やオリンピックなみの頻度ということになる。
 
好きな洋楽を一曲だけ選べと言われてもそれは不可能だ。10曲でも無理だ。枠に収まりきらない曲が数十曲はでてしまう。では、好きな邦楽を一曲選ぶのはどうか?それは可能だ。“誰かが風の中で”映画監督市川崑が演出監修のTVドラマ“木枯し紋次郎”のテーマである。作詞和田夏十、作曲小室等、23万枚を売り上げた1972年のスマッシュヒットだ。
 
 
  どこかで誰かが きっと待っていてくれる
  雲は焼け 道は乾き 陽はいつまでも沈まない
  心は昔死んだ
  微笑みには遇ったこともない 昨日なんか知らない
  今日は旅を一人
  けれどもどこかで おまえは待っていてくれる
  きっとおまえは 風の中で待っている
 
  どこかで誰かが きっと待っていてくれる
  血は流れ 皮は裂ける 痛みは生きているしるしだ
  いくつ峠を越えた
  どこにも故郷(ふるさと)はない 泣くやつは誰だ
  このうえ何が欲しい
  けれどもどこかで おまえは待っていてくれる
  きっとおまえは 風の中で待っている
 
 
ハードボイルドなこの歌詞の作者和田夏十は女性である。市川崑の夫人であり、市川作品のほとんどを手掛ける脚本家でもある。歌舞伎の女形が異性である女性の本質を捉え芸術へと昇華させるが如く、和田は現代社会にも通じる男の “孤独”を、無宿人の姿にみごとに凝縮し描いている。“木枯らし紋次郎”は、当時小3のOGが初めてハマったTVドラマである。10:30pm.スタートという小学生にとっては遅い時間帯の番組だったが、紋次郎のある土曜日だけは眠い目をこすりながらTVの前で夜更かしをした。
 紋次郎はOGのその後の人格形成に大きな影響を与えた。というより、紋次郎が同時期に放映されたジョン・スタージェスの西部劇などとともに、元来OGが持っていた資質の、細胞や遺伝子の中にあるスイッチを入れたというほうが正確であろう。テーマ曲とともに、市川崑の、他の時代劇とはまったく趣きの異なるクールでリアルな映像は、OGを夢中にさせた。学校の行き帰りには紋次郎トレードマークの長い楊枝(駄菓子の串団子の串で代用した)をくわえて歩き、宿題はどうしたのかと問われれば、“あっしには、関わりのないこって…”という紋次郎の決め台詞で、担任の教師からげんこつを喰らったりもしたし、浅草の仲見世で手に入れた、渡世人御用達の三度笠をかぶって、野原を歩き回ったりもした。
 
 “誰かが風の中で”は、歌詞はもちろん曲もアレンジも、上條恒彦の男性的で野性味あふれるソウルフルな歌唱も、すべてが素晴らしく、時代を超越していて古さを感じさせない。冒頭の短いファンファーレのようなブラス&ストリングスに、一瞬の静寂をおいて始まるアコースティックギターのアルペジオは、OGが知る最も美しく印象的なアルペジオである。ほどなく加わるベースとともにギターはコードストロークに変わり、スネアが刻む競走馬のトロットのような軽快なリズムに、破れた笠を目深にかぶり道中合羽を風になびかせ、乾いた荒れ野を抜け、篠突く雨の峠を超えていく、木枯らし紋次郎の姿が重なる。
“誰かが風の中で”はOGの音楽暦(音楽に目覚めた中一が元年である)以前に、存在した曲であり、したがって成長過程のOGの骨や筋肉の一部となって、いまだに身体と精神の一番深いところでOGと一体となって存在している。この曲を邦楽1だと言い切れるのは、そんなところにも理由があるのだろう。
(OG)
 
 
追記
 ―原稿を書くにあたってこの曲を何度か聴き返したのだが、聴くほどにアレンジの緻密さと的確さ、趣味の良さに惹かれ調べてみたところ、編曲者はクラシック畑で合唱曲などを多く手掛け、沖縄戦の悲劇を歌った名曲“さとうきび畑”の作曲家であり作詞家でもある、寺島尚彦という人物であることがわかった。OGの琴線に触れるこの2曲に何かしら通じるものがあるように感じるのは気のせいであろうか?数年前にBOSSのCMでトミー・リー・ジョーンズと猿岩石の有吉がこの曲をバックに奥の細道風の旅をするというのがあったが、自分の他にも“誰かが風の中で”になんらかの思いいれを、“孤独”の向こうにある“希望”を信じる人がいるように感じられ、うれしかったのを思い出す―